遠くて近い距離
庶民の学校ってどんなだろう。
ナイトオブラウンズとして任務に翻弄される日々を送りながら忙しく毎日を過ごしていたジノが、そんなことを思うようになったのは、スザクに出会ってからだ。

親に言われてブリタニア貴族の子息たちが集う名門校へと通いはしたが、お行儀のよい退屈な日々は刺激的な出来事を求めるジノには耐え難いものだった。
だから、スザクのいう「楽しい学園生活」というものがすぐには想像できなかったのだ。
しかし、いつもは寡黙で自分のことを語りたがらないスザクが、学校のことを訪ねると眩しそうに目を細めてくすぐったいみたいに笑いながら、楽しかった思い出を話してくれた。
そんな様子を見ていると、ジノはスザクがなんだかとても羨ましく思えたのだ。

気のいい仲間達、ワクワクするような学園行事、飽きることない楽しい日々。
そういったものの中で過ごせたら、どんなに楽しいだろう。
もう一度学校に通いたいなんて、ラウンズとなった今では難しいことはわかっているけれど、いつかスザクに頼み込んで(絶対に嫌がられるだろうけれど)必ず連れて行ってもらおうと、ジノは密かに決めていたのだ。

けれど、望んでいた日々は唐突にやってきた。
アーニャというきっかけにより思いがけない形で、その願いは実現したのだ。





「こんちは――!」

元気よく生徒会室のドアを開いて、リヴァルに教えてもらった話し方で中にいるであろう面々に向かって挨拶をする。
しかし、返ってくるであろうと予想された声は一向に聞こえてこない。

「あれ?」

首をかしげながらぐるりと生徒会室の中を見渡せば、いつもいるはずの生徒会の面々が見当たらない。

「おっかしいな〜?なんで今日は誰もいないんだ?」

大きすぎる独り言を呟きながら、誰も座っていない真ん中の大机に向かって歩き出すと、不意に足が何かに躓いて、バランスを崩す。

「おわっ…と!!」

転びかけた体勢をすぐに立て直して、自分が躓いたものを振り返る。


(あれ?鞄?)

そこには学生鞄が二つ、無造作に床に置かれていた。
ジノが躓いたせいで、中から教科書が飛び出してしまっている。
申し訳なく思いながら、はみ出した教科書を元に戻しながら、そっと鞄を取り上げて机の上におこうとすると、不意に声をかけられた。



「ジノ…うるさい」



誰もいないと思っていた部屋の中で急に声をかけられたことで、驚いて声のするほうを振り向けば、そこには唇に指を押し当てて、僅かに眉間にしわを寄せたアーニャがソファの端に座っていた。


「なんだよ、アーニャ!いたなら返事くらい…」

「静かに」


驚かされたことに非難の声をあげると、言い終わる前に有無を言わさぬ一言で諌められた。
先程うるさいと言われたばかりだったことをすっかり忘れていたジノは、咄嗟に口を手で押さえる。
そうしたあとで、なぜ静かになどといわれなければならないのか心当たりが見つからず、なんで?と答えを求めるように視線で問いかけると、アーニャはちょいちょいと指で自分のすぐ横をさし示した。
ジノからは死角になって見えないその位置になにがあるのか、そっと足音を忍ばせながらアーニャのすぐ横まで歩みを進める。
ソファの背からそっと覗き込んで、思わず「あ」と声が漏れた。

そこには生徒会副会長のルルーシュがソファに横たわって静かに眠っていた。
珍しいものを見られたことに驚き、もっと近くで見てみたくて思わず覗き込もうとしたら、アーニャから頬をつねられた。

「いっ…!」

「うるさい。それに近い」

ぴしゃりと叱られてジノはしぶしぶ覗き込んだ体を起こす。

「だからっていきなりつねらなくてもいいだろ?」

「自業自得」

なんだかアーニャがいつにも増して自分に対しきつい態度を取っているような気がするのだが、気のせいだろうか。
そんな想いをこめてじとりとアーニャを見やると、絶対零度の視線で一瞥されて、思わず喉まででかかった言葉を飲み込む。
こういう時のアーニャに逆らって、平和に終わったためしがない。
触らぬ神になんとやら、という日本の諺をスザクに教えてもらったばかりだ。
ここは日本の教訓に倣って、おとなしくしていよう。


「ほかの生徒会の人達は?」

「みんな、買出しに行ってる。しばらくは帰らないって。ルルーシュと私はお留守番」

「…留守番で寝てていいのか?」

「ルルーシュ、疲れてるって言ってたから。寝てたこと、秘密だって。だから、私とルルーシュだけの秘密だった、のに」


最後の一言を言った瞬間、ものすごく不満そうな顔でジノの顔を見上げる。
(あー…つまり俺が来た事が気にくわなかったわけか)
アーニャの不機嫌の理由に気付き、気まずそうに天井を見上げて頬をかく。
ルルーシュとの秘密が、アーニャにとっては特別なことだったらしい。
いつも無関心を貫く彼女がこの生徒会副会長に興味を抱いていることは知っていたが、どうやら自分はそんな彼女にとって最高にタイミングの悪い男になってしまったらしい。
ジノとしては不可抗力だと訴えたいところだが、こういう場合女性には素直に謝っておいたほうがいいことを、なんとなく悟っていた。

「あー…悪かったって」

「別に。ちょうどよかったし。今回は許す」

思いがけずあっさりとした返事が返ってきた。
あと30分くらいは嫌味を言われるだろうと覚悟していただけに、簡単に「許す」といわれてジノは拍子抜けする。


「ちょうどよかったって?」

「任務で呼ばれてたから。あとよろしく」

「え?」

それだけを告げると、アーニャはポケットから携帯カメラを取り出した。
「記録」と呟きながら静かに寝息を立てるルルーシュの横顔をカメラに収めると、起こさないように静かにソファから立ち上がる。
カメラに保存されたルルーシュの寝顔を確認して微笑むと、鞄を持ってさっさと生徒会室のドアに向かっていく。
突然よろしくと伝えられ、ぽかんと立ちすくむジノは今まさに部屋を出ようと、アーニャがドアノブに手をかけたのを見て、慌てて声をかける。

「ちょっとまてよ、アーニャ。よろしくってなんだ?」

「みんなが帰ってくるまでルルーシュの眠りを守ること」

「はぁ?なんだそれ」


女じゃあるまいし、眠ってる間守れなんて大げさな。
そう思いながらやれやれと頭をかいて、しぶしぶアーニャが座っていた位置へと起こさないようにそっと腰掛ける。
「それじゃいってくる」というアーニャの声に、振り返らずに頭のうえでヒラヒラと手を振ると、 なぜかなかなか扉がしまる音がしない。
不思議に思って、振り向くとアーニャがまだ部屋の外から扉を閉めかけたままこちらを見ていた。その様子を不気味に思って、思わず問いかける。


「な…なんだ?」

「ジノ、ルルーシュに変なことしたら殺すから」

「なっ…!!!」


そう一言残して、アーニャは名残惜しそうにパタンと扉を閉めた。
するわけないだろ!と思わず叫びそうになって、慌てて口を抑える。
隣で眠っている人間がいることを忘れていた。
今の騒ぎで起きてしまってやいないかと、そっと視線だけでその姿を確認する。
いまだ静かに寝息を立てるその姿に、ほっと胸をなでおろした。

それにしても、先程からすぐそばで自分とアーニャが話していたというのにいっこうに目覚める気配がない。
目の下に僅かにクマができているし、相当疲れているようだ。
そういえば先日初めて会ったときから、色が白いなとは思っていたが、もしかして具合でも悪いのだろうか。
スザクや自分とは大違いだなと思いながら、なんとなく珍しくて横たわるその体を見ていた。

(肩とかすごい華奢だし、体も薄いよな。ちゃんとメシ食ってるのかな?)

見れば見るほど自分とは違うルルーシュの姿に、なんとなく目が釘付けになる。
もっと近くで見てみたくて、ソファの背に腕をかけて起こさないようにそっとルルーシュに近づく。

(首とか腰とかすげー細いし、髪も男のくせにスゲー綺麗だし…)

その時、小さく身じろぎしたルルーシュの顔にパサリと前髪が零れ落ちた。
黒い細い髪がさらさらと頬を流れ落ちるさまを見ていたジノは、髪を透こうと無意識に手を伸ばしていた。
頭の中が靄がかかったみたいで何も考えられない。
ただ心臓はうるさいくらいドキドキいっていて、他の音が耳に入らなくなる。
目に映るのは眠っている横顔だけで、瞬きをすることも忘れてその姿から目がそらせなくなる。
僅か10センチの距離をゆっくりと縮めようとする自分の手が、まるで別物みたいに見えた。

(こんなに綺麗な髪、みたことない…)

もう少しで髪に触れそうな距離まで近づいたとき、指がびくりと震えて、咄嗟に弾かれたみたいに手を引いた。

(あれ?)

頬が高潮する。それと同時に、なぜか頭の奥が急速に冷えていく感覚を味わっていた。
なんだろう。なぜか今、触れてはいけないような気がした。
(いや…違う…)
触れてはいけないんじゃなくて、なんとなく違和感を感じたんだ。
(違和感、いったい何に?)
混乱した頭でいくら考えても、不思議な違和感の正体はつかめない。
頭に靄がかかったようではっきりしないことに苛立ちを感じて、思わず頭をかきむしる。
(くそっ…なんなんだよ、意味わかんないぞ!)
わからない。けれど、まったくわからないわけじゃない。
わからない部分はとりあえずこの際置いておこう。
そうだ。だから、つまり、俺は。

その時、頭を抱えてうなるジノの耳に、ふとか細い声が聞こえた。
まさか誰かいるのかと慌てて周りを見回すが、やはり自分とルルーシュ以外誰もいない。
聞き間違いかと安心しため息をつこうとして、今度はさっきよりもはっきりとした声がジノの耳に届いた。


「…ご…め……」


はっとしてルルーシュを見やり、言葉を失う。
先程と変わらぬ横顔で眠るルルーシュの頬を、涙が一筋伝い落ちていった。
思わずソファから落ちそうなほど慌てて体を離す。
(泣いてる?なんで…)


「ごめん………」


先程よりはっきりと聞こえた「ごめん」という言葉に、なぜか胸が痛くなる。
自分に言われているわけではないだろうに、不思議とそんな気がするのはなぜだろう。
閉じられた瞼から溢れ出したもう一筋の涙を、拭おうと手を伸ばそうとして、
先ほどのことを思い出して力なく腕を落とす。
(…なんなんだよ、これは)
その場にいることが耐えられなくなり、そっとソファから立ち上がると、ジノは自分の制服の上着を脱いでルルーシュにかけて、そっと生徒会室をあとにする。



極力音をさせないように静かに、けれどしっかりと扉を閉めると、深くため息をついて閉じた扉を背に廊下に座り込んだ。
ルルーシュの眠りを守れというアーニャからの頼みは、これで許してもらうことにしよう。
はっきりとしない疑問は残っていたが、なぜかそれさえも込みで、今は自分の気持ちがよく見えた。
さっきほど感じた違和感の正体はつかめないが、あの時思わず触れたくなった自分の気持ちの名前なら心当たりがある。
こんなことで動揺するなんてらしくないなと呟いて、ちょっと照れくさくなる。

「すき…なのかな…」

へへっと笑って、僅かに残る鈍い頭の痛みをやり過ごした。

その時、閉じられた扉の向こうで呟かれた言葉を、ジノは知らない。